- しかし, キリスト にあって 義とされることを 求めることによって, わたしたち 自身が 罪人であるとされるのなら, キリスト は 罪に 仕える 者なのであろうか. 斷じてそうではない.
- もしわたしが, いったん 打ちこわしたものを, 再び 建てるとすれば, それこそ, 自分が 違反者であることを 表明することになる.
- わたしは, 神に 生きるために, 律法によって 律法に 死んだ. わたしは キリスト と 共に 十字架につけられた.
- 生きているのは, もはや, わたしではない. キリスト が, わたしのうちに 生きておられるのである. しかし, わたしがいま 肉にあって 生きているのは, わたしを 愛し, わたしのためにご 自身をささげられた 神の 御子を 信じる 信仰によって, 生きているのである.
- わたしは, 神の 惠みを 無にはしない. もし, 義が 律法によって 得られるとすれば, キリスト の 死はむだであったことになる.
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- しかし, もし 私たちが, キリスト にあって 義と 認められることを 求めながら, 私たち 自身も 罪人であることがわかるのなら, キリスト は 罪の 助成者なのでしょうか. そんなことは 絶對にありえないことです.
- けれども, もし 私が 前に 打ちこわしたものをもう 一度建てるなら, 私は 自分自身を 違反者にしてしまうのです.
- しかし 私は, 神に 生きるために, 律法によって 律法に 死にました.
- 私は キリスト とともに 十字架につけられました. もはや 私が 生きているのではなく, キリスト が 私のうちに 生きておられるのです. いま 私が, この 世に 生きているのは, 私を 愛し 私のためにご 自身をお 捨てになった 神の 御子を 信じる 信仰によっているのです.
- 私は 神の 惠みを 無にはしません. もし 義が 律法によって 得られるとしたら, それこそ キリスト の 死は 無意味です. 」
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