- そこで, この 安息にあずかるはずの 人¿がまだ 殘っていることになり, また, 先に 福音を 告げ 知らされた 人¿が, 不從順のためにあずからなかったのですから,
- 再び, 神はある 日を「今日 」と 決めて, かなりの 時がたった 後, 旣に 引用したとおり, /「今日, あなたたちが 神の 聲を 聞くなら, /心をかたくなにしてはならない 」と ダビデ を 通して 語られたのです.
- もし ヨシュア が 彼らに 安息を 與えたとするのなら, 神は 後になって 他の 日について 語られることはなかったでしょう.
- それで, 安息日の 休みが 神の 民に 殘されているのです.
- なぜなら, 神の 安息にあずかった 者は, 神が 御業を 終えて 休まれたように, 自分の 業を 終えて 休んだからです.
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- そこで, その 安息にはいる 機會が, 人¿になお 殘されているのであり, しかも, 初めに 福音を 傳えられた 人¿は, 不從順のゆえに, はいることをしなかったのであるから,
- 神は, あらためて, ある 日を「きょう 」として 定め, 長く 時がたってから, 先に 引用したとおり, /「きょう, み 聲を 聞いたなら, /あなたがたの 心を, かたくなにしてはいけない 」/と ダビデ をとおして 言われたのである.
- もし ヨシュア が 彼らを 休ませていたとすれば, 神はあとになって, ほかの 日のことについて 語られたはずはない.
- こういうわけで, 安息日の 休みが, 神の 民のためにまだ 殘されているのである.
- なぜなら, 神の 安息にはいった 者は, 神がみわざをやめて 休まれたように, 自分もわざを 休んだからである.
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